抗日戦爭(zhēng)中、中國(guó)共産黨?八路軍の聶栄臻元帥の部隊(duì)に命を救われた日本人の少女がこのほど、中國(guó)を訪れた。栫(かこい)美穂子さん(69)は24日午後、中國(guó)人民対外友好協(xié)會(huì)ビルの入り口で、聶元帥の娘の聶力さんと3年ぶりに再會(huì)した。2人は堅(jiān)く抱き合い、親しくあいさつを交しながら、手に手を取って面會(huì)室へ入った。
聶力さんの娘、聶菲さんは栫さんに大きなバラの花束を贈(zèng)った。聶力さんは「今日は娘も連れてきました。父の遺志を継ぎ、私は中日両國(guó)の恒久的な共存や両國(guó)人民の世々代々にわたる友好の実現(xiàn)に努力します。私たちは永遠(yuǎn)に姉妹です」と語(yǔ)った。
1940年8月、聶將軍の部隊(duì)に命を救われた時(shí)、栫さんはわずか4歳だった。それから65年間が瞬く間に過(guò)ぎた。栫さんにとって今回が6度目の中國(guó)訪問(wèn)になる。
聶力さんの回顧によると、栫さんが初めて北京を訪れた1980年、聶元帥は栫さんに「中日両國(guó)の人民は、日本の侵略戦爭(zhēng)の中で大きな災(zāi)難を被った。あなたはまさにそうした例の一つだ。今日あなたがご家族とともに幸せに暮らしていることを知り、とてもうれしい」と話したという。また「中日両國(guó)が友好関係をうち立てたおかげで、あなたを探し出すことができた。両國(guó)人民の友好関係が世々代々にわたって続くことを願(yuàn)う」と語(yǔ)った。
今回、聶力さんは夫と共に「中日両國(guó)人民世代友好(中日両國(guó)の人民が世々代々にわたり友好でありますよう)」と書(shū)いた掛け軸を栫さんに贈(zèng)った。また?jī)?yōu)雅な中國(guó)式の上著を取り出し、「姉として、妹のあなたに服を送ります。サイズが合うかどうか分かりませんが、あなたのために選んだものです。気に入ってくれるといいのですが」と話しながら、栫さんに著せた。栫さんは故郷特産の高級(jí)和紙で作られた工蕓品を聶力さんに贈(zèng)った。
聶栄臻元帥と栫さんの再會(huì)のきっかけとなったのは、聶栄臻元帥が栫さんの手を引いている一枚の寫(xiě)真という。聶力さんは栫さんに王雁さんという女性を紹介した。王さんの父親こそ、その貴重な寫(xiě)真を撮影した沙飛記者だ。聶力さんは「彼女のお父さんがあの寫(xiě)真を撮らなければ、私たちの再會(huì)はなかった」と語(yǔ)る。王雁さんはこのほど出版された「沙飛撮影全集」を栫さんに贈(zèng)った。
栫さんは感激のあまり涙を流しながら、聶力さんの手を取り「お姉さん、ありがとう!感激のあまり言葉になりません」と感謝の言葉を送った。そして日中両國(guó)民が永遠(yuǎn)に平和的、友好的で、過(guò)去の悲劇が繰り返されないことを願(yuàn)う気持ちを伝えた。
抗日戦爭(zhēng)でも有數(shù)の大規(guī)模會(huì)戦「百団大戦」の最中の1940年8月、戦火で両親を無(wú)くした日本の女児?栫(かこい)美穂子さん姉妹は、中國(guó)共産黨?八路軍の兵士に砲火の中を助け出された。當(dāng)時(shí)、晉察冀軍區(qū)(今の河北省?山西省に相當(dāng))の司令員だった聶栄臻元帥は、姉妹を手厚く世話し、まだ交戦中だった日本側(cè)の兵営に送り屆けた。聶元帥のこの美談は、中日両國(guó)の人民間の友情を証拠づける歴史的なエピソードとして今に伝えられる。
寫(xiě)真(上):聶栄臻司令員(當(dāng)時(shí))と栫美恵子さん
寫(xiě)真(中):聶元帥と栫さんの再會(huì)=1980年7月14日、北京?人民大會(huì)堂で
寫(xiě)真(下):栫さんを親族の元に返すよう、聶元帥が日本側(cè)司令官に求めた直筆の手紙
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2005年8月25日