かつてアメリカの地理學(xué)者ロカは、ナーシー(納西)族の古代王國(guó)を研究するため麗江を訪れ、27年もの間、この地に住み続けた。晩年の彼は「玉竜雪山で死にたい」と心の內(nèi)をもらしていたという。麗江はそれほどに魅力にあふれ、人々の憧れの地であり続けている。
麗江は、雲(yún)南省西北部、海抜2416メートルの高原に位置する。ナーシー族の古都として、伝統(tǒng)的住居に代表される民族文化を今につたえ、1997年、ユネスコの世界文化遺産に指定された。
私にとっても麗江は長(zhǎng)い間、憧れの場(chǎng)所だった。そしてついにその地を訪れる機(jī)會(huì)を得て、飛行機(jī)の窓から次第に近づいてくる麗江の姿を眺めていると、古都と周?chē)欷蛉·陣欷嗌健─⒍帳苏à椁欷肯渫イ韦瑜Δ拭坤筏丹悄郡吻挨似趣盲皮俊?biāo)高5596メートルの玉竜雪山は、その名のとおり雪におおわれ、銀の鎧を身につけた武士が古城を守り続けているようだ。やがて麗江に降り立てば、高原の澄み切った空気のなかに、古い家屋、入り組んだ路地が広がり、思い描いていた以上の神秘的な雰囲気に、私はしばし夢(mèng)見(jiàn)心地になってしまった。
麗江の都が造営されたのは、宋代末から元代初期(13世紀(jì)末)にかけてといわれる。當(dāng)時(shí)、漢語(yǔ)では「大研鎮(zhèn)」と呼ばれ、ナーシー族の言葉では、「グゥベン」とか「イクディ」などと呼ばれていた。「イクディ」とは街を流れる金沙江の後背地、というような意味、「グゥベン」は米倉(cāng)、つまり米の集散地という意味だという。明代初期(14世紀(jì)中ごろ)には、麗江は相當(dāng)な規(guī)模の都となり、雲(yún)南、四川、チベット一帯の交通の要所だった。清代以降、17世紀(jì)中ごろには、麗江は雲(yún)南西北部の物資の集散地として、重要な役割を果たすようになっていた。また歴史の一時(shí)期、インドからチベット、雲(yún)南一帯に向かう隊(duì)商たちの通路となっていたこともある。険しい山岳地帯を移動(dòng)するこうした隊(duì)商は馬を連ねたもので、主に茶の取引きをしていた。彼らの移動(dòng)したルートは「茶馬古道」とも呼ばれるが、麗江は、彼らにとっても重要な街だったのだ。
古都は今も當(dāng)時(shí)の面影をたたえ、車(chē)の騒音も、自転車(chē)の姿さえもない。私は街で唯一といわれる古い住まいをそのまま使用した旅籠に泊まってみることにした。木造二階建ての上階の部屋をあてがわれたが、階段はのぼりおりするたび、ギシギシと音をたてる。歴史のロマンを感じつつ、窓を開(kāi)ければ、大通りの東大街が見(jiàn)える。遠(yuǎn)くに目をやれば、玉竜雪山。私は沸き上がる興奮にせかされるように、カメラを擔(dān)いで街にとびだした。
まずは麗江を訪れたほとんどすべての人が行く四方街に向かった。この通りは、東西に約150メートル、道幅は約25メートル。道に沿ってぎっしりと店舗が並ぶため「四方街」と呼ばれる。またナーシー族の言葉では「ジルグ」と呼ばれ、それは「街の中心」という意味だという。元代初期に露天の市場(chǎng)として始まり、清代にはすでに相當(dāng)の規(guī)模になっていたという。當(dāng)時(shí)、市場(chǎng)では土地の布や、穀物、野菜、酒、薪などが売られていた。今もここは街の商いの中心で、店では麗江特産の手作りの銅器、ナーシー族の民族衣裝、ナーシー族に伝わるトンバ文字を刻んだ工蕓品、高原で採(cǎi)れる希少な漢方薬材、土地の食品などが売られている。だから麗江を訪れた人は、ここを見(jiàn)學(xué)し、旅行の記念の品を買(mǎi)うことになる。 四方街は六本の通りとつながっていて、ここから麗江のどこにでも行くことができる。通りには石畳が敷かれており、ところによってそれが縦並びになっていたり、橫並びになっていたりする。聞くところでは、往時(shí)、不案內(nèi)な旅人でもインドへ向かう道と、チベットへ向かう道をすぐ見(jiàn)分けることができるように、敷き方が工夫されていたのだという。
明け方、まだ陽(yáng)がのぼらないうちに散歩をすると、街の人たちは、敷石を水で丁寧に清めている。明け方の光が石の面に映えて、なんともすがすがしく、美しい。朝食をつくる時(shí)間になると、人々は家が煤だらけになるのを避けるために、石炭コンロを通りの真ん中に持ち出す。そして煮炊きが始まり、煙が漂う。その數(shù)が増えるにつれて、古都の一日はゆっくりとあけていく。ここにはなんと詩(shī)情豊かな朝があることだろう。
ナーシー族の女性たちの服裝にも私は魅了された。年配の婦人も、うら若い乙女も、みな腰には獨(dú)特のスカートのような布を巻き、羊皮のショールをはおっている。ショールの背中には「七星」と呼ばれる、丸い模様が七個(gè)縫い付けてある。七星は、日、月、星のシンボルで、ナーシー族の女性たちの賢さと勤勉さを象徴するのだという。
ショールの形は、もともとナーシー族の先祖が崇拝していたカエルの形狀に由來(lái)している。七星はカエルの目でもあるのだという。道端の屋臺(tái)では、どこででも七星の模様をはめこんだおみやげの類(lèi)が売られている。
街の西にある獅子山には、木造、五層の樓閣があり「萬(wàn)古樓」と呼ばれる。上層からは麗江の街が遙かに見(jiàn)渡せ、15キロ離れた玉竜雪山も遠(yuǎn)くに見(jiàn)える。獅子山のふもとに、かなりの規(guī)模の建築群が目に入るが、それは明代以來(lái)、この地を支配した土司(土地の少數(shù)民族の指導(dǎo)者に皇帝が與えた世襲の官職)の木氏の官邸だ。清代以降、建物は何度も破壊され無(wú)殘な狀態(tài)になっていたが、近年、修復(fù)された。官邸に入ると、まず石の牌坊(鳥(niǎo)居形の門(mén))が目につく。そこには「聖旨」「忠義」と文字が刻まれた二枚のへん額が上下に掲げられている。明の神宗(1573~1620年)の筆と伝えられるもので、當(dāng)時(shí)の土司と中央政権との密接さを見(jiàn)て取ることができる。ただしこの牌坊の原物は「文化大革命」中に破壊されており、今の建物は近年復(fù)元されたものだ。それは確かに一つの代替品にはなっているが、ナーシー族の
歴史の証人である牌坊は、永遠(yuǎn)に失われ戻らない。私は悔しく思いながら、さらに建物の見(jiàn)學(xué)を続けた。建物は、正殿、光碧殿、玉音殿、三清殿、御園と、一列に奧に連なっており、全體の構(gòu)造は故宮を思わせる。ナーシー族の文化と中原の文化は、源をたどれば、重なりあう部分が多いのだろう。
夜、辺りは靜まり、かすかに楽器の調(diào)べが聞こえてくる。人々は三々五々、ナーシー族の古老たちが奏でるナーシー古楽の演奏會(huì)場(chǎng)にでかけていく。中國(guó)民族音楽の生きた化石、ともいわれるこの音楽は、明清時(shí)代、中原から麗江に伝わった道教の音楽がもとになっているという。彼らは中原ではとうの昔に使われなくなった弦楽器や、竹の吹奏楽器、大型の琵琶などを使う。いにしえの調(diào)べは、今自分は古代の隊(duì)商たちとともに、彼らが旅をした道にいるのではないか、という気分にさせる。
深夜、私は銅鑼の音で目を覚まし、あわてて窓を開(kāi)けた。それは実は夜番が子の時(shí)を人々に告げるものだった。私はいつのまにか身を翻してカメラを抱え、深い眠りのなかにいる麗江の街にまた走りだしていた……。
「人民中國(guó)」より 2004年11月4日